今日のライブ

君がいない西口徒歩5分のライブハウス

ステージに君がいないことを否が応にも突きつけられて寂しくなってました。

それでも君のメンバー達は僕らの想いも慮ってくれるパフォーマンスで涙が出ました。

寂しいけど楽しい。

物販に行くつもりはなかったけどピンクの視線に引きづられて話したら『帰ってくる場所を作れたよね!!』って泣ける言葉をもらって暖かい気持ちになれました。

のんびり待ってるから今はゆっくり心を整えてください。逢える日を楽しみにしてるよ!!大好き

Repeat negative morning #感想文後記

A子が鼻歌で奏でる「新世界より(遠き山に日は落ちて)」が葬式帰りのE子のバックに町内放送で流れている。


Twitterで呟いたE子に正論のリプを返すB子とそのやりとりを鼻白んで眺めるA子。


E子のツイートに返信があった時のゆうらのセリフ『正論だね。健康的だよ』→A子の独り言に呼応『それはまるで私の心が不健康だと言われ…』

 

 


 このように、この作品群ではさまざまな場面で5人の日常が交差しリンクする。監督・脚本の意図とは違うかもしれないが、気がついたところをざっくばらんに書き留めていこうと思う。

 

 

 

首を絞めるものが電気コード。A子とB子に共通するが、延長コードと電動マッサージ器ではだいぶ違うか。まあその場にあったコードということで。


C子 『たぶん世界は私に興味がない』

E子 『ましてや他人はあんたの不幸に興味はない』

 どちらも悲しい現実に向き合わされる辛辣な言葉だ。誰しもが見て見ぬ振りをしたくなる。


C子が表紙のイラストを描いた本を捨てD子が拾う。D子はイラストのセンスを褒める。

 C子にとってはバラン作りのような作業だったかもしれないが、誰かにとっては心の救いになることもある。この後D子はずっとその本を、クチナシのイラストが表紙のその本を決して手放さない。


その本のタイトルが「人生を楽に生きるための本」B子のツイートを思い起こす。しかし内容は薄っぺらい自己啓発本のようだ。著者が遠藤明美→E子?A子?と深読みをしたが、多分お門違いだろう(笑)。


『樹海でも目指す?』と皮肉な笑みを浮かべながら、E子に絶対に死ねないことの比喩で語るゆうら。漠然と考えた死は目指してみても遠いということ。


E子が死のうかなと思い立った場所(俯き、不意に夜空を見上げ歩き出すシーン)→ゆうらが『でもあんたには出来ないよ。だって…』と言った場所。


D子が歩道橋の上で叫ばない これは#5.1でD子自ら語るが、叫ぶことは過去を発散することにはなっても何も進まない。叫ぶのではなく走る。感情を爆発させ足を前に未来に運ぶのだ。


B子のリプライ 自分に言い聞かせるが如く、返信内容を書き直しど正論を言ってしまう。自分の情け無さに自己嫌悪するB子 。死にたいと思っても実際にそうする人はやはり少ない。これが普通なのだと思う。


E子の美しい文章ツイート (ポエム)『桜のカーテンが私を包み 光のシャワーが影を落す

私の歩む道は正解なんだと春が教えてくれたきがした。』

 これはA子のささやかな昼下がりの情景に違わない。E子もまたこのような景色の中にいることが幸せの象徴なのだろうか。

 

 

 

 結構な回数を5本通しで観たけれど、観れば観るほど細かな部分に気付きがあって見応えのある作品群だったなとの感想を持った。まだまだ細かな遊びがありそうで、何度も見返しては発見したいと思う。

 

 

 

 それぞれ面識のない人々の物語だが、同じように悩み絶望し、やがて自らと向き合い、形は違えど少し前を向いて歩き出す。『人には人それぞれの地獄がある』それと同時に、誰にも同じように朝は来て、その朝に救われることもある。

 

 やがてまた同じような夜は来るだろう。何度も何度も何度も何度も。それでも朝が来たら起き上がる、走り出す。そうやって自分になってささやかな昼下がりを過ごせるようになれればいいなと思う。最後まで続けてみると後味爽やかな青春の物語であった。 了

Repeat negative morning #5.1


 5人の夜が終わり、それぞれの朝が来る。#5の後に挿入されたラストチャプター。わかりやすくするために文字に起こしてみる。

 

 

夜が明けた。最悪の渋谷の狭い朝。何故かそれに少しだけ安心した。『B子』


だから


いつもの気怠い朝を。この朝で。怯えるのではなく眩しい光を見てみると、狂った世界は少しだけ面白くなるのかもしれない 『C子』


そして


情け無いけど、本当に情け無いけど、ささやかな孤独を隠してくれたこの空に胸が鳴った 『A子』


それは


ありがちで誰にも言えないくらい恥ずかしくて痛い考えかもしれないけど…自分自身なのだ、変わるのは。上手くいかないかもしれない。嫌な思いをするかもしれない。それでも、何者にもなれなかった私は私になれたのだ。大丈夫 『E子』


今の


9862回目の今日を忘れない きっと届くかもしれない。失敗なんかじゃない。叫びたい衝動を抑え走って、走って、走って 『D子』

 


普通の贅沢を手に入れてみよう。死ぬより難しいかもしれないけど河原に行ってみよう

夜に足元を掬われ、牛乳ヒゲをつけた私はそんな朝に救われました 『A子』

 

 


 それぞれの言葉はその人だけのものではない。誰が言ったとしても、誰にでも当てはまり、朝が来るということはそういうことなのだ。


 これは6話の完結の話ではない。それぞれの話にコンマ1がついた始まりの話だと思う。生きていく上で、どの子の話も自分の身に起こり得る話だ。そんな最悪な時でも必ず朝が来てまた0.1からカウントが刻まれ始める。

 そうやって最悪の夜を乗り越えたり、怯えから逃れたり、ささやかな孤独から救われたり、希望に向かい走り出したり、自分を認め何者かになれたり。何かを思い今日も起きる。それが長い人生なのだと思う。

 誰にでも一度はあるであろう消えたくなるような夜に、中指を立て笑って歩き出せるような素敵な映像と音楽だった。そして素敵な朝だった。

 


 夜に足元を掬われ、朝に救われる物語。何度も涙しながら観続けたけど、最後に流れた涙は朝露のように清々しい気持ちにさせてくれた。 了

Repeat negative morning #5

 『何者にもなれないE子さん』

 

タイトルから連想される文学・映画など私が連想できずにいると、友人が『輪るピングドラム』という10年ほど前のテレビアニメ作品があり、そのキャッチコピーが「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」でリンクするのではないかと教えてくれた。Wikipediaを調べてみると次のようなことが書かれていた。


 『キャッチコピーは「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」、「僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」で、「何者にもなれない」はキーワードである「生存戦略」や「デスティニー(運命)」とともに作中キャラクター達によって度々言及されている』


 うーむ。。。なんかピンと来ないな。そうかもしれないけど今までのしっくりする考えには至らず、背景の出典は不明のまま感想を綴る事にする。

 

 

 連作で初めて朝から物語が始まる。5話通してみるととても新鮮で爽やかに感じるが、主人公E子が着ているのが喪服ということはそういうことだ。喪服とアイドル衣装。凄まじい対極ながら同一人物であろうE子。心の葛藤を表しているのだろう。悩み苦しむ様子の喪服E 子に対し全てを見透かしたような、ともすればバカにしたような発言を繰り返すアイドル衣装のE子。いや、こちらは『ゆうら』と呼ぼう。

 思い悩み、死をも考えるE子に対しゆうらはステージの上から辛辣に、そして苛烈に捲し立てる。

 


 『構って欲しいだけのツイートに正論で返されて、この世から消える勇気すらないことも見透かされて、傷ついて、その状況に酔ってるだけ。』

 『人とは違う不幸な私とか思ってるかもだけど、その考えがもう人並みなんだって。ましてや他人はあんたの不幸に興味はない!』

 『それに気づいてるのに現実逃避の嘘ばっか吐いて、自分の言葉には目を逸らして、ただ臆病なだけじゃん!!』


 ステージ上に今度はE子がいる。『違う!』そう叫んだものの二の句が継げない。するとフロアにいるゆうらが諭すように優しく語り始める。

 

 『でも私の痛みは本物だよ。誰からも必要とされないのは孤独だよね。死にたくなるよね。ずっとそうだったから。鈍感なふりしてる方が楽だもん。顔の見えない嘘は心地いいもん。』

 『だけど…だけどその孤独があるから誰かに憧れるんだ。あんたの孤独も憧れもあたしなんだよ』

 

 このシーンでゆうらの手にはスマホが握られている。そうか、E子でありゆうらは今初めてちゃんと葛藤に向き合って臆病な自分と対峙してるのか。ここから二人は会話を始める。『ちゃんと向き合えバカ』と言われて初めて顔を上げ真正面に向き合って自らの望みを語るE子。

 『誰かに必要とされたい。何かをもらって何かを与えられるような存在になりたい。自分の存在に気づいてもらいたい!! できるかな?』

 無言で肯くゆうらの口元には微かに笑みが浮かんでいる。これで大丈夫。

 


 そして冒頭の朝のシーンへと戻ってくるのだが、起き上がったE子は朝日を見上げゆっくりと微笑む。自分の弱さや孤独を認め、誰かに必要とされる何者かになれたいい笑顔だ。

 

 

 この#5はRepeat negative morningの歌詞をなぞらえているのだろう。文字にするとよくわかる。小さな頃から養成所に通ったり子役から芸能の仕事をしていたり。そういった一部のエリートアイドルとは違い、様々な思いを抱え集まった5人の姫事絶対値の等身大の楽曲。

 今までそれぞれに悩み、苦しみ、傷つき、足掻き。消えてしまいたくなるような夜も数えきれないほどあったのだろうと想像し悲しくなるが、5人の悲しみはそんなものと比べ物にならないくらいに壮絶なものだと思いまた涙が流れる。

 ただ、苦しい悲しいだけを背負って続けてきたわけでは決してない。その負の感情を超えてあまりある喜びや楽しみ。たくさんの歓声と愛を全身で受け止めてきたからこそ、ずっと5人でやって来れたはずだ。ファンだけではなく家族、友人、スタッフ、関係者。全ての想いが合わさって姫事絶対値を包み込んできたのだと思い胸が熱くなった。

 

 

 #5が終わると同時にフィナーレの#5.1がイントロと同時に幕を開ける。作品群全体の検証とともにまた次の機会に語ろうと思う。まだまだ語れることが嬉しい 了

Repeat negative morning #4

 『D子さんの失敗』


『ホント生まれてすんませんって感じです』この言葉を予告編で聞いた時、「なるほど。次は太宰で来るのか」。連作の意図がわかるようになっている。この作品群の世界観にぐいぐい引き込まれている自分がいた。

 この有名な言葉は、調べたところ実は太宰の苦しみから産み出た言葉ではなく友人からの盗用だったと知り、まだまだ世の中には知らないことがあるもんだと感心した。話しを戻そう。

 

 

 ”片手で数えきれるほど“ の幸せはあったけれど、誕生日に樹海を目指して歩くD子は側から見れば「人間失格」であろう。ただそれは赤の他人の勝手な価値観で測っただけで、本人は至って真面目に目的を果たそうと歩く。歩く。緩やかな死への行軍。

 D子自身もこんな方法で死ねるわけがないと思っているのだろうが、出来るかどうかよりやるかどうかが大切なのだろう。その覚悟が地味に辛い。

 『一般的に十分幸せらしく困った事に考え方がダメらしいのです』と言うD子らしい行動で、誕生日に死を意識することによってそこから何か生きていくための道筋を見つけられるかという挑戦なのかもしれない。

 『誰かの死にたい夜は口内炎みたいなもので、食べて生きようとするとそれは痛み、でも誰からも気付かれません』D子が語るこの言葉は至極秀逸な比喩表現だ。人からどう見られていようとダメだと思ってしまう気持ちを変えるには、何か自分の中できっかけがないと到底自身の納得するものにはならない。

 道中捨てられた本を手に取るシーンがあるが、これはまた後日連作の繋がりを考察する時に語ろうと思う。

 

 

 この作品群で初めて朝を迎える。樹海には到底辿り着けない。そんな時お母さんからのLINEが届く。誕生日メッセージから最近お父さんを亡くしたことがわかる。それにより塞ぎ込んでいたことも。

 そしてD子はお母さんのメッセージで今まで知らなかった、今は亡きお父さんからのメッセージを受け取る。

 『生まれてありがとう』

 自分では『生まれてすんません』と思っていたところに、不意に、大好きだったお父さんから祝福の言葉で頭をガツンとぶん殴られたのだ。最も愛に溢れ、温かい言葉の拳で。

 この緩やかな死への歩みをのろのろと続けていたD子は突如走り出す。それはまるで友人の死を防ぐために走り続けたメロスのように、全力で生を望み走る。お母さんが待っている温かな場所だろうか。そしてお父さんに少しでも届くように階段を登り空に向かって走る。

 歩道橋を登り切り、朝日が昇ろうとしている空に向かって……叫ばない。この演出は素晴らしい。脚本家は叫ばせたくなるところだがD子は叫ばない。もうわかったのだ。自分のダメな考え方に。生まれた時点で幸せなんだと。愛情溢れる両親の元に育ち、27回目の春を迎えられた自分は不幸ではない事に。自分の(考え方の)失敗に。

 


 幸せは叫ぶものではなく噛み締めるものだと私も思う。4作目にして希望の光が差した。 了

Repeat negative morning #3

 『箱の中のC子さん』

 


 『狂った今の世で気が狂うなら気は確かだ』

シェイクスピアの名言だそうだ。聞いたことはなかったがなるほど、うまく言ったもんだ。

 

 

 自分の本当にやりたい事を仕事にするか趣味にするか。思春期であれば絶対にやりたい事を極めて、その道で成功して飯を食っていきたいと息巻くところだろう。

 現実はどうか。一握りの天才、ごく僅かな努力家を除けば大概は大人になるにつれ挫折と妥協を繰り返し、言い訳と共に、食べていくために夢野望を少しずつ剥ぎ取っては捨てていく。少しづつ自分を誤魔化しては気づかなように傷つかないように生きていく。

 

 『このままバランを作り続ける人生を想像しては絶望を繰り返し毎晩消えたくなる』

所詮自分への言い訳は説得力のあるものではなく、ふとした夜に流行病のようにぶり返す。それは弁当を食べようとしてバランを避けた時に、自分の仕事が、自分の存在がつまみ出されたかのように感じてしまったこの夜のように。

 


 C子は狂い、破壊し、そして果てには死を選ぶのだろうか。幾たびそんな夜が訪れても多分その決断はない。暴れ狂う事を夢想しながらも、捨てきれない夢はそっと上の方に掲げて地べたを這い回り飯を食う。大半の大人はそうやって寿命まで歩を進める。

 


 『感情の赴くままに狂えたらどんなに幸せなのだろう』

 それを幸せと呼ぶのだろうか。諦めるというよりも割り切る。やりたい事は趣味。やりたくない仕事で飯を食いながら生き延びて好きな事に時間とお金を費やす。そんな人生にも幸せはあるのではないか。ささやかな。平凡な。なんてことはない幸せ。

 人生を楽に生きるための方法なんて、自己啓発本など読まなくともたどり着けるのかもしれない。自らの忘却だと思う。そして今を精一杯生きること。もちろんこれは誰しもに当てはまる事ではない。私の人生の話。

 


 #3のC子には誰しも思い当たる節があり、これまでのストーリーで一番共感できるのではないか。陳腐な話に見えても誰もが共通して心中に持ち、そして何億通りにもなる特別なストーリー。

 この3話目を観終わった時には「ああ、死にたい夜は誰にでも来るよな」と誰しもが納得するだろう。

 


『あと何度過ごせば何気ないこの夜が終わるのだろうか』

この問いかけに答える言葉は今も見つからない。多分これからも。 了