Repeat negative morning #4
『D子さんの失敗』
『ホント生まれてすんませんって感じです』この言葉を予告編で聞いた時、「なるほど。次は太宰で来るのか」。連作の意図がわかるようになっている。この作品群の世界観にぐいぐい引き込まれている自分がいた。
この有名な言葉は、調べたところ実は太宰の苦しみから産み出た言葉ではなく友人からの盗用だったと知り、まだまだ世の中には知らないことがあるもんだと感心した。話しを戻そう。
”片手で数えきれるほど“ の幸せはあったけれど、誕生日に樹海を目指して歩くD子は側から見れば「人間失格」であろう。ただそれは赤の他人の勝手な価値観で測っただけで、本人は至って真面目に目的を果たそうと歩く。歩く。緩やかな死への行軍。
D子自身もこんな方法で死ねるわけがないと思っているのだろうが、出来るかどうかよりやるかどうかが大切なのだろう。その覚悟が地味に辛い。
『一般的に十分幸せらしく困った事に考え方がダメらしいのです』と言うD子らしい行動で、誕生日に死を意識することによってそこから何か生きていくための道筋を見つけられるかという挑戦なのかもしれない。
『誰かの死にたい夜は口内炎みたいなもので、食べて生きようとするとそれは痛み、でも誰からも気付かれません』D子が語るこの言葉は至極秀逸な比喩表現だ。人からどう見られていようとダメだと思ってしまう気持ちを変えるには、何か自分の中できっかけがないと到底自身の納得するものにはならない。
道中捨てられた本を手に取るシーンがあるが、これはまた後日連作の繋がりを考察する時に語ろうと思う。
この作品群で初めて朝を迎える。樹海には到底辿り着けない。そんな時お母さんからのLINEが届く。誕生日メッセージから最近お父さんを亡くしたことがわかる。それにより塞ぎ込んでいたことも。
そしてD子はお母さんのメッセージで今まで知らなかった、今は亡きお父さんからのメッセージを受け取る。
『生まれてありがとう』
自分では『生まれてすんません』と思っていたところに、不意に、大好きだったお父さんから祝福の言葉で頭をガツンとぶん殴られたのだ。最も愛に溢れ、温かい言葉の拳で。
この緩やかな死への歩みをのろのろと続けていたD子は突如走り出す。それはまるで友人の死を防ぐために走り続けたメロスのように、全力で生を望み走る。お母さんが待っている温かな場所だろうか。そしてお父さんに少しでも届くように階段を登り空に向かって走る。
歩道橋を登り切り、朝日が昇ろうとしている空に向かって……叫ばない。この演出は素晴らしい。脚本家は叫ばせたくなるところだがD子は叫ばない。もうわかったのだ。自分のダメな考え方に。生まれた時点で幸せなんだと。愛情溢れる両親の元に育ち、27回目の春を迎えられた自分は不幸ではない事に。自分の(考え方の)失敗に。
幸せは叫ぶものではなく噛み締めるものだと私も思う。4作目にして希望の光が差した。 了