Repeat negative morning #3

 『箱の中のC子さん』

 


 『狂った今の世で気が狂うなら気は確かだ』

シェイクスピアの名言だそうだ。聞いたことはなかったがなるほど、うまく言ったもんだ。

 

 

 自分の本当にやりたい事を仕事にするか趣味にするか。思春期であれば絶対にやりたい事を極めて、その道で成功して飯を食っていきたいと息巻くところだろう。

 現実はどうか。一握りの天才、ごく僅かな努力家を除けば大概は大人になるにつれ挫折と妥協を繰り返し、言い訳と共に、食べていくために夢野望を少しずつ剥ぎ取っては捨てていく。少しづつ自分を誤魔化しては気づかなように傷つかないように生きていく。

 

 『このままバランを作り続ける人生を想像しては絶望を繰り返し毎晩消えたくなる』

所詮自分への言い訳は説得力のあるものではなく、ふとした夜に流行病のようにぶり返す。それは弁当を食べようとしてバランを避けた時に、自分の仕事が、自分の存在がつまみ出されたかのように感じてしまったこの夜のように。

 


 C子は狂い、破壊し、そして果てには死を選ぶのだろうか。幾たびそんな夜が訪れても多分その決断はない。暴れ狂う事を夢想しながらも、捨てきれない夢はそっと上の方に掲げて地べたを這い回り飯を食う。大半の大人はそうやって寿命まで歩を進める。

 


 『感情の赴くままに狂えたらどんなに幸せなのだろう』

 それを幸せと呼ぶのだろうか。諦めるというよりも割り切る。やりたい事は趣味。やりたくない仕事で飯を食いながら生き延びて好きな事に時間とお金を費やす。そんな人生にも幸せはあるのではないか。ささやかな。平凡な。なんてことはない幸せ。

 人生を楽に生きるための方法なんて、自己啓発本など読まなくともたどり着けるのかもしれない。自らの忘却だと思う。そして今を精一杯生きること。もちろんこれは誰しもに当てはまる事ではない。私の人生の話。

 


 #3のC子には誰しも思い当たる節があり、これまでのストーリーで一番共感できるのではないか。陳腐な話に見えても誰もが共通して心中に持ち、そして何億通りにもなる特別なストーリー。

 この3話目を観終わった時には「ああ、死にたい夜は誰にでも来るよな」と誰しもが納得するだろう。

 


『あと何度過ごせば何気ないこの夜が終わるのだろうか』

この問いかけに答える言葉は今も見つからない。多分これからも。 了